大阪天満宮【大阪市・北区】

大阪市北区天神橋、日本一長いといわれる天神橋筋商店街のすぐそばに鎮座する大阪天満宮。「天満の天神さん」と親しまれ、学問の神さま・菅原道真公をお祀りする、大阪を代表する天満宮です。

毎年7月24日・25日の天神祭は、東京の神田祭、京都の祇園祭とならぶ日本三大祭のひとつ。愛染祭・住吉祭とともに大阪三大祭にも数えられ、毎年130万人もの人がお参りに訪れます。

境内には、15を超えるお社や、連歌・俳句・算額・上方落語など、大阪の文化を伝える碑や額がいっぱい。このページでは、境内のひとつひとつのお社まで、できるだけくわしく紹介します。

はじまりは、都を守る「大将軍社」

大阪天満宮が鎮座するのは、大阪城のあたりから南北にのびる台地(上町台地)の北の端。由緒によると、この地形と、水運の要所だったことから、大化元年(645年)、孝徳天皇は都を難波長柄豊崎宮に遷しました。そのとき、宮の四方を守る神としてお祀りされたのが、今の摂社「大将軍社」と伝わります。

境内の大将軍社の碑には、宮の西北を守るために、毎年6月と12月の末日に「道饗祭(みちあえのまつり)」が行われていたことが記されています。のちにその地に大将軍社が創祀されると、道饗祭の故事にちなんで、石畳が西北の方角に向けて敷かれたそうです。

このあたりは昔「大将軍の森」と呼ばれ、それが今の「南森町」の地名のもとになったと、大将軍社の案内板に書かれています。

境内には「神武天皇聖跡 難波之碕」の碑も立っています。日本書紀によると、神武天皇が東へ向かう途中にたどり着いたのが「難波之碕」。潮の流れがとても速かったことから「浪速の国」の名がつき、のちに「難波」になったとされています。その地域は、上町台地の北の端から天満のあたりにかけてと記されています。

菅原道真公と、大阪天満宮の創建

延喜元年(901年)2月、大宰府へ左遷されることになった菅原道真公は、その途中でこの地の大将軍社にお参りし、船で旅立ちました。道真公は、延喜3年(903年)2月25日に大宰府で亡くなります。

それから40年あまりたった天暦3年(949年)、村上天皇の勅命によって、大将軍の森に大阪天満宮が創建されました(天暦7年(953年)とも伝わります)。境内の星合の池の案内板によると、このとき池の水に霊光が映ったと伝わります。

道真公の名が高まるにつれて、まわりの森は「天神の森」「天神の松原」と呼ばれるようになり、この里も「天満」と呼ばれるようになりました。天満という地名は、大阪天満宮にちなんだものです。

門前町のにぎわいと、天神橋のはじまり

大阪天満宮は、昔から交通の要所にあったことから門前町が栄え、神社の領地は十いくつもの村に広がりました。社頭の「渡辺の浜」に入ってくる船からは「帆別銭」という入船料を受け取る特権を持ち、そのお金で渡辺の橋を維持していたそうです。

文禄3年(1594年)には、天満宮の会所支配人・大村由己に、新しい橋を架けさせました。これが、今の「天神橋」のはじまりです。

大坂の陣のあとには、広い境内に楼門・廻廊・神楽殿・宝庫・文庫・連歌所・能舞台が建ち並び、氏地は100あまりの町に広がる、畿内でも指折りの神社になりました。

連歌と俳句、上方文壇のふるさと

文神としての信仰もあつく、文亀2年(1502年)の道真公600年祭には、連歌師・飯尾宗祇が天満宮の連歌所で発句を献上しています。宗祇の発句は「あすも見ん松に大江の夕霞」。

正保4年(1647年)9月には、西山宗因が連歌所の宗匠として迎えられ、戦乱で途絶えていた月ごとの連歌会が再開されました。これより代々西山家が受け継ぎ、連歌は全盛期を迎えます。由緒では、宗因が招かれたことで、井原西鶴や近松門左衛門らが育ち、上方文壇が生まれたとされています。

境内には、俳句ゆかりの碑がたくさんあります。
・西山宗因の句碑「浪華津にさく夜の雨や花の春」「なかむとて花にもいたし首の骨」
・宗因の弟子・小西来山の句碑「夜の明けて尾花大きく成りにけり」
・松尾芭蕉の句碑「梅咲てよろこぶ鳥の気色かな」。芭蕉51歳の作で、芭蕉の二百回忌にあたる明治26年(1893年)の冬に建てられました
・大阪出身の俳人・後藤夜半(明治28年〜昭和51年/1895〜1976年)の句碑。昭和46年(1971年)の除幕には、門下生150人が参列しました
・その息子で俳人の後藤比奈夫(大正6年〜令和2年/1917〜2020年)の句碑。星合の池のそばに立っていて、昭和59年(1984年)の除幕には、門下生300人が参列しました

天神さまは書道の神さまとしても信仰されていて、境内には、使い古した筆を納めて感謝し、上達を誓う「筆塚」もあります。

明治10年(1877年)12月8日に、伊勢神宮の祭主だった久邇宮朝彦親王がお参りされた際の御筆「画神」の碑も。親王の御筆の「文神」にちなんで、煙嵐社中から奉納されたものです。

拝殿には、江戸時代の数学の問題と答えを書いて奉納した「算額」も掲げられています。文化5年(1808年)の宅間流算術の算額で、平成10年(1998年)に大阪市立東高校の数学部と近畿数学史学会が復元し、奉納しました。

日本三大祭のひとつ、天神祭

天神祭は、平安時代中期の天暦5年(951年)に始まったと伝わります。

大永6年(1526年)8月には、天満宮のお祭りのお供えが御所へ献上されていて、天文15年(1546年)には、本願寺一族の順興寺実従が、その華やかさに驚いています。文化・文政のころには、大阪にあった各藩の蔵屋敷や大商人の支えもあって、天神祭を中心に大いににぎわいました。

天神祭には、「鳳神輿」と「玉神輿」の2基の神輿が登場します。10世紀の終わりに京都の御霊会で神輿2基が出たことにならったもので、鳳神輿には野見宿禰、玉神輿には手力雄命の御霊がお乗りになるそうです。今の神輿は、天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱で前の神輿が焼けたあと、天保11年(1840年)に寄進されたもの。鳳神輿は菅南連合(菅南八町会)、玉神輿は大阪市中央卸売市場本場の業者の人たちが講をつくって、陸渡御・船渡御に奉仕しています。

戦争のため昭和13年(1938年)から途絶えていた水陸の渡御は、昭和28年(1953年)に復活しました。平成6年(1994年)5月7日には、オーストラリアのブリスベンでも天神祭が行われ、その記念の「日豪親善の碑」も境内に立っています。

大塩平八郎の乱と、焼け残った社殿

天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱で、本殿をはじめ多くの社殿が焼けてしまいました。今の本殿・拝殿は、弘化2年(1845年)に再建されたものです。

昭和20年(1945年)6月16日の空襲では、焼夷弾がかなりの数落ちたものの、どれも不発だったり、火が出てもほとんど被害がなかったりして、すべての建物が戦災を免れました。公式サイトでは、氏子の人たちが、自分の家が燃えるなかでも「天神さんを焼いたらあかん」と守ってくれたおかげと紹介されています。

明治35年(1902年)には道真公の一千年祭が行われ、このころ全国の神社に先がけて「教学部」がつくられています。

出世を願う「登龍門」と、十日えびすの「蛭子門」

東門・西門の両側には、鯉と龍の図柄の金燈籠があります。もとは江戸時代から置かれていましたが、戦前の金属供出でなくなり、台座だけが残っていました。菅原道真公の千百年大祭を記念して、昔ながらの図柄で再現されたものです。

屋根の部分では鯉が勢いよく跳ね上がり、胴体には龍が巻きついて、天をめざして舞い上がろうとしています。中国の黄河の上流にある「龍門」を登りきった鯉は龍になるという故事から、この門こそ「登龍門」。くぐれば出世するといわれています。

大阪天満宮には6つの門があり、そのうち入ってすぐ左手に「戎社(蛭児社)」があったことから「戎門(蛭子門)」と呼ばれてきた門もあります。江戸時代の戎社では、毎年正月・5月・9月の10日に「蛭児尊遷殿神事」が行われ、年3回の「十日えびす」には大勢の参拝者がこの門を通りました。戎社はのちに境内の西北へ移されましたが、門の名前は今も残っています。十日えびすは、平成19年(2007年)の正月に復興されました。

本殿のまわりのお社

表大門をくぐった本殿のまわりには、たくさんのお社が鎮座しています。案内板をもとに、ひとつずつ紹介します。

大将軍社(摂社)

大阪天満宮の地主神で、孝徳天皇の時代に、皇居の四方を守る神としてお祀りされたのがはじまり。大阪天満宮が創建されるよりも前から、この地にあったお社です。

白米社と稲荷奥宮

白米社の御祭神は稲荷大神。はじまりは詳しくわかっていませんが、文政7年(1824年)に出た『神仏霊験記図会』にも載っていて、昔から人々にあつく信仰されてきました。星合の池のほとりにあった白米稲荷にちなんだ「いなりずし」は、参拝者に親しまれた名物だったそうです。

稲荷奥宮は、昭和63年(1988年)12月25日に伏見稲荷大社から神璽をお迎えしてお祀りした、白米社の奥宮です。

蛭児遷殿

御祭神は蛭児大神。商家の守り神として信仰されているえびすさまです。
平成19年(2007年)に十日えびすが復興されてからは、毎年1月9日の宵えびす、10日の本えびす、11日の残り福の3日間、「天満天神えびす祭」として、大阪天満宮のえべっさんがにぎわいます。

十二社

御祭神は、吉備聖霊・早良親王・藤原夫人・伊予親王・火雷神・火産霊神・埴山比売神・天吉葛神・川菜神・藤原広嗣霊・橘逸勢霊・文太夫霊の12柱です。

このうち、吉備聖霊・早良親王・藤原夫人・伊予親王・藤原広嗣・橘逸勢・文太夫・火雷神の8柱は、平安時代に「御霊(ごりょう)」としてお祀りされた神々です。御霊とは、無実の罪などで亡くなり、災いを起こすと恐れられた人の霊のこと。人々は、その霊を手厚くお祀りして、災いが起こらないよう願いました。

この8柱は「八所御霊(はっしょごりょう)」と呼ばれ、京都の御霊神社などでも、まとめてお祀りされています。藤原夫人は伊予親王の母、文太夫は文室宮田麻呂のことです。

火の神さまの火産霊神と、その荒ぶる力をおさめる神々もお祀りされています。土の神・埴山比売神、ひさご(ひょうたん)の神・天吉葛神、川の水草の神・川菜神は、古くから、火をしずめるお祭りで大切にされてきた神々です。

天神さま(菅原道真公)も、はじめは御霊として恐れられた神さま。御霊としてお祀りされた神々と、火をしずめる神々がそろっているのは、天満宮らしい組み合わせといえそうです。

神明社

御祭神は天照皇大神と豊受皇大神。天照皇大神は伊勢神宮の内宮、豊受皇大神は外宮の御祭神で、豊受皇大神は五穀を生み育てた食べものの神さまです。

八坂社

御祭神は素盞嗚尊。もとは北区天神西町にあったお社を、大阪天満宮へ移してお祀りしたものです。神話では、出雲でヤマタノオロチを退治し、天叢雲剣を天照大神に献上した神さまとして知られています。

霊符社

御祭神は天御中主神。天地のはじめに高天原に現れた、天地創造の神さまです。節分の日には、願う人の延命長寿を祈る祈祷が行われます。

松尾社

御祭神は大山咋神。大津市坂本の日吉大社や、京都・嵐山の松尾大社にお祀りされている神さまと同じです。

八幡社

御祭神は応神天皇。仲哀天皇と神功皇后のあいだに生まれた第15代の天皇で、この時代に大和朝廷の勢力が大きく広がったとされています。

吉備社

御祭神は吉備真備公。吉備地方出身の奈良時代の学者・貴族で、従二位右大臣までのぼりました。霊亀2年(716年)に遣唐留学生として唐へ渡ったとき、刺繍や裁縫の技を持ち帰ったといわれ、例祭には大阪の刺繍業者の人たちも参列します。

吉備社の隣にある「針塚」も、この故事にちなんだもの。毎年2月8日には、吉備社で「お針まつり(針供養)」が行われ、神事のあと、参拝者が大きなこんにゃくに、折れた針や古くなった針を刺して供養するのだとか。ふだん硬い布を縫ってくれた針を、最後はやわらかいものに刺して休ませてあげる、という感謝の気持ちが込められているそうです。針塚は、2026年で吉備社に据えられて100年を迎えたといいます。

白太夫社

御祭神は渡会春彦。大宰府の配所で、道真公のそば近くに仕えたといわれる人物です。

老松神社

御祭神は住吉大神と神功皇后。神功皇后が九州から帰る途中、大きな松の下で風や波を避け、木の下にお社を建てたのがはじまりと伝わります。貞観2年(860年)に白砂青松の地(旧老松町三丁目)に老松神社が建てられ、平成2年(1990年)6月に大阪天満宮の境内へ遷されました。

老松社 紅梅殿

御祭神は「御愛樹之霊」。由緒は詳しくわかっていません。

住吉社

御祭神は底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命の住吉三神です。

妻社

御祭神は大己貴大神(大国主命の別名)。古い大阪の地図では渡辺橋の北詰に鎮座していましたが、廃れていたお社を再興しようと、昭和22年(1947年)9月に社殿が造営されました。

亀吉・鶴姫大明神社

白米社の裏手に鎮座するお社で、鶴姫大明神・亀吉大明神・天満辨財天の3柱があわせてお祀りされているそうです。弁財天は、七福神のひとりとしても知られる神さまです。

本殿のまわりで見つけたいもの

天満天神の水

江戸時代、大坂の人たちは生活用水を川や井戸からとっていましたが、井戸の水はあまり良いものではありませんでした。そのなかで大阪天満宮の井戸水は、大坂の名水のひとつとして評判に。中之島の蔵屋敷では、藩主が滞在しているあいだ、わざわざ天満宮から水を運んで飲み水や料理に使ったほどです。平成26年(2014年)にふたたび汲み上げられ、今の飲み水の基準も満たしています。

表門を入ってすぐの「御神水舎」で、この水をいただくことができます。扉が開くのは、毎月1日・10日・25日の9時から17時までと掲示されています(変わることもあるので、公式サイトで確認してみてください)。すぐそばには、井戸の神・御井神をお祀りする「黒土祠」もあります。

狐・天狗の爪研ぎ石

「狐や天狗の爪研ぎ石」と呼ばれる自然石ですが、実は古代に勾玉や管玉を磨いた砥石です。

さざれ石

国歌「君が代」にうたわれるさざれ石で、平成27年(2015年)6月に、さざれ石の採れる岐阜県揖斐郡春日村から奉納されました。

道を挟んだ北側、星合の池のまわり

公式サイトの境内図では境内に含まれていますが、本殿のまわりからはいったん鳥居を出て、車1台が通れるほどの道を渡った先に、鳥居と星合の池があります。

星合の池と願い玉

天正2年(1574年)の『石山軍記』に「天満山の北、明星の池、星合の池の間に織田信長が本陣を置いた」と書かれていることから、少なくとも千年以上の歴史をもつといわれる古い池です。大阪天満宮が創建されたとき、池の水に霊光が映ったとも伝わります。近くには明治のころまで、七夕池・明星池・夫婦池もありました。

昭和のはじめまで、池のまわりには紅梅や藤の花が咲きみだれていました。池にかかる「星合橋」は、お見合いが行われたことから「愛嬌橋」とも呼ばれていたそうです。

この池では、6色の「願い玉」を、道真公が愛した梅の花の的に向かって投げて願いをかけることができます。赤は良縁・恋愛、黄は商売繁盛、白は健康・病気平癒、青は芸能・芸術・武術、緑は学徳・合格、金は万願成就。散米(米をまいてお祓いをする習わし)が、のちにお賽銭になったという故事にちなんだものです。

明治の天神橋の橋名飾板

星合橋のそばには、「天神橋」の文字が刻まれた古い部材があります。天神橋は、文禄3年(1594年)に架けられたのがはじまりとされ、明治18年(1885年)7月の淀川の大洪水で流されたあと、明治21年(1888年)にドイツ製の鉄橋として架け替えられました。昭和9年(1934年)には、今の3連アーチの橋になっています。

この部材は、明治の天神橋の橋名飾板で、天神橋の北詰とこの星合橋の北詰に保存されているのだとか。天神橋のはじまりにかかわった大阪天満宮らしい見どころです。

宇賀社

星合の池のそばに鎮座するお社です。星合の池の案内板には、昭和のはじめまで池に「宇賀の社」があったと書かれていて、今もその名のお社がお祀りされています。

祖霊社

大阪天満宮の神職や、氏子・崇敬者の祖先の御霊をお祀りするお社です。

高坐招魂社

上方落語の発展に力を尽くした先人たちの御霊をお祀りするお社です。上方落語は明治に大いに栄えたあと、昭和のはじめから何度も存続の危機を迎え、昭和32年(1957年)4月1日に上方落語協会がつくられました。平成29年(2017年)9月に、先人への感謝と芸の上達を願って建てられています。

川崎東照宮の神輿蔵

元和2年(1616年)に徳川家康が亡くなった翌年、今の造幣局から滝川小学校のあたりに「川崎東照宮」が建てられました。明治6年(1873年)に廃社となり、その神輿蔵が大阪天満宮へ移されています。軒瓦には、徳川家の葵の御紋が見られます。

星合茶寮

星合橋を渡った先には、茶屋「星合茶寮」があり、名物は「すべらんうどん」。お店の公式サイトでは、大阪天満宮の境内に2004年に開いたと紹介されています。営業日やメニューは変わることがあるので、お店の公式サイトで確認してみてください。

天満天神繁昌亭と「天満八軒」

江戸時代の大阪天満宮の境内は、今の国道1号線のあたりまで広がっていて、演芸や飲食の小屋が50軒ほど建ち並んでいました。人形浄瑠璃・新内節・浮かれ節・軽口(落語)・神道講釈などが楽しめる、人気の遊び場だったそうです。

明治のはじめの上知令で、大工門より北が境内の外になると、そのあたりは「天満天神裏」と呼ばれ、歌舞伎や女義太夫・落語・軍談・楊弓場などの小屋や飲食店で、ますますにぎわいました。なかでも寄席小屋は「天満八軒」と呼ばれ、大阪の演芸史に名前を残しています。星合の池の近くにも、天満八千代座や浪花節の国光席、吉本興業のはじまりとなった天満花月などの寄席が並んでいました。

上方落語は、1700年ごろ、京都の露の五郎兵衛、大阪の米沢彦八が、神社の境内などでおもしろい咄を聞かせた「辻ばなし」が出発点とされています。戦争で大阪の落語の定席はすべて失われましたが、平成18年(2006年)9月15日、上方落語を愛する人たちの寄付と、大阪天満宮・天神橋筋商店街の協力で、天満八軒ゆかりのこの地に「天満天神繁昌亭」が開かれ、61年ぶりに上方落語の定席が復活しました。

なにわ七幸めぐり

大阪天満宮は、大阪の7つの社寺をめぐる「なにわ七幸めぐり」のひとつで、学業成就のご利益とされています。ほかの6か所は、住吉大社(厄除祈願)、四條畷神社(心願成就)、大念佛寺(諸芸上達)、太融寺(無病息災)、今宮戎神社(商売繁盛)、四天王寺(家内安全)です。

大正時代の古書に残る大阪天満宮【大正の記録】

大正15年(1926年)の『大正大阪風土記』では、所在地は大工町一番地、道案内は今はない市電の鳴尾町停留場の東と書かれています。当時の社格は府社で、氏地は川崎町など110の町にわたっていました。今の「森町」の地名は、「天神の森」の名残だとも記されています。

同書によると、豊臣氏は、長柄・曽根崎・川崎・福島など5つの荘を神領として寄進しました。明治のはじめには社殿もかなり荒れていましたが、明治34年(1901年)に10万円をかけて大修繕。明治42年(1909年)の北区の大火では、町の人や信者たちの力で、猛火をこの場所で食い止めたことが、当時の人々の記憶に新しい出来事として書かれています。

天神祭のようすもくわしく記されています。神輿は大阪天満宮を出て陸路で若松町の浜へ向かい、そこから船に乗って江之子島の府庁前で上陸し、松島の行宮へ。帰りは同じ道を逆にたどりました。地車は神輿の先駆けで、渡御の道を平らにするという意味があったそうです。提灯の灯や、かがり火をのせた船が水面を照らす天神祭は、水の都大阪の一大見どころと紹介されています。

堂島川にかかる「鉾流橋」は、長さ約90メートル、幅約7メートルのコンクリートの橋。昔、天神祭の船渡御のときに、ここで鉾流しの神事を行ったことから、その名がついたそうです。

大宰府天満宮では、鷽(うそ)のお守りを暗がりの中で袖から袖へ取り替え、金の鷽を引き当てた人には福運があるという「鷽かへ神事」が知られていますが、大阪天満宮では、当時はお守りを授けるだけで、取り替えは行っていなかったと書かれています。それでも夜明け前から数百人が開門を待つほどのにぎわいでした。

拝殿の裏側でもお参りできる「裏詣り」【参拝メモ】

2026年10月に参拝しました。天神祭で有名な神社です。僕の住んでいる地域の氏神さまということで、そこそこの頻度で伺っていますし、たまたまですが、知り合いが大阪天満宮で結婚式(神前式)を挙げた際に呼んでもらったこともあり、何かとご縁があります。
伺った日は週末ということもあってか、参拝の方も多く、最近は欧米からの観光の方もよくおられます。

地下鉄の南森町駅とJR東西線の大阪天満宮駅からすぐのところにありますが、駅からいちばん近い鳥居は裏にあたります。商店街を南に進んでぐるりと回り込み、「蛭子門」を通り過ぎると、「表門」があらわれます。
表門の脇には、昼間だと一見わかりづらいですが、「随身さん」と呼ばれる大きな人形が見守っています。夜になるとライトがついて、ちょっと迫力があります。

表門をくぐると、前方に立派な拝殿が鎮座しています。この拝殿も、つい最近まで、「2027年の菅原道真公1125年大祭(式年大祭)」に合わせて、銅板屋根の葺き替え工事が行われていました。
また、門から入って右手には大きな手水舎があり、10月に入ってから、梅のモチーフを頭にのせた牛さん(公式キャラクター「てんまろ」)のかわいい石像が置かれるようになりました。定期的に「花手水」も行われているようです。

そんな拝殿で、まずお参り。
拝殿の左側から回るかたちで進むと、拝殿の横には「登竜門」という門があり、拝殿の左側と右側でつながっています。この門はふだん閉ざされていますが、1月から3月ごろにかけて「通り抜け参拝」をしていて、そのときだけ開かれます。毎年その時期になると、合格祈願や就職祈願の方たちがずらりと並んで、通り抜け参拝をされています。
10数年前、たまたま何も知らずに大阪天満宮にお参りした際に通り抜け参拝が行われていて、遅い時間帯だったので列もそれほどなく、通り抜けられたことがありました。どうやら、たまたまが重なっただけのようです。

その登竜門と拝殿を右手に見て、拝殿に沿うかたちで進むと、前方に鳥居(駅から近い鳥居)があり、その左手の数段高くなったところに「大将軍社」があります。
このお社は、大阪天満宮が創建される前からあったお社ということで、大阪天満宮の中でも重要なお社のひとつです。拝殿に比べると小さなお社なので、僕も大阪天満宮のことをしっかり調べるまでは拝殿だけにお参りしていたのですが、調べてからは「大将軍社」にもお参りしています。

「大将軍社」の左隣には「神明社」があり、伊勢神宮の内宮と外宮の御祭神の「天照皇大神」と「豊受皇大神」がお祀りされています。
さらに隣には「蛭児遷殿」。大阪では有名な「えべっさん」と呼ばれる毎年1月9・10・11日のお祭りでは、「蛭児遷殿」が開かれていて、えべっさんにお参りできます。近くの堀川戎神社とあわせて、この時期のこのエリアは、商店街も含めて「えべっさん」ムード一色になり、にぎやかです。

右手に戻るかたちで拝殿の裏側のほうへ進むと、「十二社」という12の神さまをお祀りする横長のお社があります。お社の前には、「十二社」にお祀りされている神さまを記した木の案内板がありますが、年々歴史を深めて、だんだん文字が読みづらくなっています。
「十二社」の向かいは拝殿の裏側にあたりますが、その場所にも賽銭箱があり、裏詣り(うらまいり:裏側に回って神さまに手を合わせること)ができるようになっています。

そのまま右手に進むと、天神祭で使われる御神輿が収められている大きな蔵が2棟あります。
さらに進むと、素盞嗚尊をお祀りする「八坂社」。「大己貴大神」こと「大国主命」をお祀りする「妻社」。そして小さな手水舎の隣に、少し大きな、「稲荷大神」をお祀りする「白米社」が鎮座しています。
「白米大神」と書かれた赤い提灯がずらりと並び、少し華やかです。この「白米社」の近くにも外に出られる朱色の鳥居が立っていて、「白米稲荷社」と記されています。「白米社」も祭日にはふだんより多くの参拝の方がいらっしゃるので、大切にされているお社です。

「白米社」の拝殿はぐるりと回れるようになっていて、そこには20センチくらいの小さな朱色の鳥居が「千本鳥居(朱色の鳥居がずらりと連なる参道)」に見立てて並んでいたり、「狐、天狗の爪研ぎ石」があったりします。
「白米社」のすぐ隣には「稲荷奥宮」があり、「千本鳥居」の先に、お狐さまに見守られたお社があります。
「白米社」の裏手には、「筆塚」や、「亀吉大明神」「天満辨戝天」「鶴姫大明神」をお祀りするお社、石碑などもあります。

あとで調べると、このお社は「亀吉・鶴姫大明神社」と紹介されていて、「鶴姫大明神」と「亀吉大明神」は神話に出てくる神さまではないそうです。由来はわかりませんでした。

「稲荷奥宮」の右手には「住吉社」があり、「吉備社」と「針塚」、「八幡社」、「松尾社」と、それぞれのお社が並んでいます。
その隣には「霊符社」があり、御祭神は「天御中主神」と記されています。「天御中主神」は古事記でいちばん最初に登場する神さまで、謎の多い神さまとしても有名です。あまり知られていませんが、大阪天満宮にも「天御中主神」がお祀りされているんです。
この「霊符社」が大阪天満宮のいちばん東の端になり、外に出られる門もあります。「白米社」から「霊符社」までのエリアは木も多く、少し静かなエリアです。

一度、表門まで戻ります。
表門のすぐ隣には、「御神水 天神の水」の「御神水舎」があります。毎日扉が開いているわけではなく、御神水舎の開扉日は毎月1日・10日・25日の9時から17時までと記されています。
また、「御神水舎」の隣には「天満天神の水」の解説の石板があり、その隣には、「黒土祠」と書かれ、「御井神」と札のかかったお社がありました。今まで何回もお参りしているのに、このお社にはまったく気がついていませんでした。

「蛭子門」のほうへ移動すると、大きな木も多く、少し雰囲気が変わります。
「住吉大神」と「神功皇后」をお祀りする「老松神社」。そして岩の上に建つ「白太夫社」と「老松社 紅梅殿」の2つのお社。「白太夫社」は「渡会春彦」という道真公の側近のようですが、どちらのお社もそれ以外は詳しくわかっていないようで、謎めいた雰囲気があふれ出ています。
ほかにも境内には、「神武天皇聖跡 難波之碕」の大きな石柱があったり、国歌の君が代にも出てくる「さざれ石」があったりと、お社以外にも石碑がいっぱいあります。

境内はこれですべて、と言いたいところですが、大阪天満宮には「星合の池」というエリアもあり、境内に含まれます。
場所は、「白米社」の朱色の鳥居を出て、細い道路を挟んだ向かい。「星合之池」という石柱と鳥居があり、池が見えます。
鳥居をくぐると、池の真ん中を通る短い「橋」になっていて、この先には「すべらんうどん」が食べられる「星合茶寮」があり、合格祈願でお参りに来られた方に人気のようです。
橋を渡るとすぐ目の前に「祖霊社」があります。その右手には、「上方落語」にゆかりのある「高坐招魂社」というお社が鎮座しています。

「上方落語」の寄席として有名な「天満天神繁昌亭」は、大阪天満宮と隣り合って建っていますが、正確には、大阪天満宮から無償で提供された境内の土地に建っているのだとか。大阪天満宮と上方落語は、ご縁も深そうです。
このエリアにも石碑が多く、昔の天神橋の橋の一部があったり、大阪天満宮の社務所でいただける「願い玉」を投げて奉納する場所も、この池です。

これで境内すべてのお社にお参りしましたが、すべてを回って実感したのは、大阪天満宮には有名な神さまがかなりお祀りされているということです。
天神さまはもちろん、八幡系、伊勢・神明系、稲荷系、住吉系、八坂系、松尾系など、いろんな神さまがおられるので、大阪天満宮が一年中にぎやかなのは、神さまがにぎやかなおかげかも、と思いました。

天神橋筋商店街や天満天神繁昌亭に来られた際は、ぜひ大阪天満宮にも。天神橋筋商店街は1丁目から8丁目くらいまでありますが、大阪天満宮は2丁目付近なので、勘違いするとかなり歩くことになるのでご注意を。

おわりに:天満の天神さんで、大阪の歴史と文化にふれる

都を守った大将軍社から始まり、道真公をお祀りする天神さんとして、天神橋や連歌、上方落語まで、大阪の歴史と文化を育ててきた大阪天満宮。

天神橋筋商店街を歩くついでに、ひとつひとつのお社や碑をめぐりながら、ゆっくりお参りしてみてください。

主祭神 [神社の中心的な神様]
  • 菅原道真公
御神徳 [神様から授かる恵みやご利益]
  • 商売繁盛
  • 厄除開運
  • 学業成就

 

開運

大阪天満宮

住所:大阪府大阪市北区天神橋2-1-8
アクセス:南森町駅 徒歩3分
社務所受付時間:9:00~17:00
電話番号:06-6353-0025
公式HP:大阪天満宮


Googleマップで開く

 
 

神社巡りをされる方へ|御朱印帳の選び方ガイドはこちら