玉造稲荷神社(玉造神社)【大阪市・中央区】
大阪市中央区の静かなまちにたたずむ「玉造稲荷神社」は、紀元前12年に創建されたと伝えられる、歴史深い神社です。
かつて勾玉をつくる職人たちが暮らしたことから「玉造」と名づけられたこの地で、今も変わらず、地元の人々に親しまれています。
聖徳太子の戦勝祈願や、豊臣秀頼による再建、大阪城とのつながりなど、さまざまな歴史の舞台となってきたこの場所は、勝負ごとや目標達成、商売繁盛など、さまざまなご利益があるといわれています。
忙しい毎日のなかで、少しだけ心を休ませたいときに。歴史とご利益に満ちた玉造稲荷神社で、やさしい時間を過ごしてみませんか?
大阪城のすぐそば、歴史とご利益がぎゅっと詰まった神社
大阪・玉造エリアにひっそりとたたずむ「玉造稲荷神社」。都会のど真ん中にありながら、ここには2000年を超える歴史と、たくさんの“ご縁”が詰まっています。
お散歩がてら、会社帰りに、ちょっと気分転換したい日にもおすすめ。知れば知るほど訪れたくなる、そんな神社をご紹介します。
この神社があるから、“玉造”という地名が生まれた
玉造稲荷神社の創建はなんと紀元前12年、垂仁天皇の時代とされています。当時この地には、勾玉(まがたま)などをつくる“玉作部”という職人集団が住んでいたことから、「玉造」という地名が誕生したのだとか。
今でも神社の近くには、歴史を伝える資料館「難波・玉造資料館」もあり、古代ロマンを感じられます♡
聖徳太子もここで祈った!“勝利”の神社
用明天皇2年、仏教をめぐる争いの中、聖徳太子がこの地に陣を敷き、戦勝祈願を行いました。そのとき、太子が地面に差し込んだ木の箸から、なんと枝葉が生えたという伝説が!
戦にも勝利し、太子は感謝の意を込めて十一面観音像などを彫り、ここにお堂を建立されたそうです。今も“勝負ごと”や“目標達成”にご利益があるとされています◎
豊臣秀頼が再建、大阪城の守り神だった
戦乱や火災で何度も被害を受けながらも、そのたびに再建されてきた玉造稲荷神社。豊臣秀吉の築城の際には三の丸の一部として整備され、後に秀頼が再建。大阪城の鎮守神として、代々大切にされてきました。
今でも、城に縁のある人々の“守り神”として信仰を集めています。
江戸時代は「お伊勢参り」の西の玄関口
江戸時代には「稲荷社十五社めぐり」のひとつとして有名になり、お伊勢参りへ向かう人たちがまず立ち寄る“出発の神社”として、旅の安全を祈願していたとか。
今も、旅行前にお参りに訪れる方がいるんですよ♡
時代を越えて、地域とともに生き続けて
明治・大正・昭和と、たびたび火災や戦争に見舞われながらも、氏子たちの手によって再建。現在の社殿は昭和29年に建てられたものです。
昭和51年には三笠宮寛仁親王がご参拝され、それを機に境内整備も進み、地元の人々にとって“暮らしの中にある神社”として愛され続けています。
令和の今も、新たなご縁をつなぐ場所に
近年では、かつて疫病除けとして信仰された「梅薬師」が、コロナの平癒を祈って再整備されたり、古代の外交拠点“三韓館”にゆかりの「松の木大明神」が合祀されたりと、現代の悩みにも寄り添ってくれる場所に。
歴史を大切にしながら、今の私たちの願いにも優しく耳を傾けてくれる…そんなところが、この神社の魅力なんです。
おわりに:がんばる毎日に、ちょっとだけ“いいこと”を
玉造稲荷神社は、大阪のまちの中で、昔から変わらず人々を見守り続けてきた神社。
勝負ごとに、旅の安全に、日々の無事や健康に。どんなお願いごとでも、きっとここなら受け止めてくれそう。
次のお散歩やおでかけのついでに、少し足をのばして“歴史と願いを結ぶ場所”を訪れてみませんか?
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